能登畠山氏

西暦年号事績
1205元久2畠山重忠が北条義時の軍勢に敗れ戦死.嫡子の重保も鎌倉にて殺害.北条時政の後妻である牧の方の娘婿である平賀朝雅から遺恨を受けた事が原因.
畠山重忠の未亡人であり北条時政の娘が足利義兼の庶長子の足利義純と婚姻.足利義純は畠山氏の名跡を承継するが、新田義兼の娘との間にもうけていた岩松時兼、田中時朝らを義絶.
1210年承元4足利義純が10月7日に病没.
畠山泰国が北条氏の後援を得て美濃に所領を得る.子の義生が美濃領の一部を承継(美濃畠山氏は日向に移り日向畠山氏となる).
畠山時国が吉良満氏の娘を正室とする.畠山時国は美濃仲北庄および鶴山郷の地頭を勤め、出家後は上蓮と称した.
1345年貞和6畠山時国の子の高国が、吉良貞家とともに奥州管領に任命され奥州に下向.
1350-1352年観応年間観応の擾乱が勃発.畠山高国・国氏父子は足利尊氏派として足利直義派の吉良貞家と干戈を交える.畠山高国・国氏は居城の陸奥岩切城を攻略され自刃.国氏の子の国詮(平岩丸)は二本松に逃れ二本松畠山氏の祖となる.
時国の子で高国の弟の畠山貞国が畠山氏当主となる.但し、畠山宗家の嫡流は畠山高国なので二本松畠山氏が嫡流ということになる.
畠山貞国の子の家国が畠山氏当主となる.この系統が河内畠山氏となり後に室町幕府管領職を輩出する.
1353年正平8畠山家国の子の国清が鎌倉公方足利基氏を補佐する立場の関東管領に就任.
1361年正平16畠山国清が足利直義派によって失脚し伊豆に下向.修善寺城を鎌倉公方足利基氏によって落とされ国清は消息不明となる.後に弟の義深が室町幕府将軍足利義詮に許されて越前守護に任命される.
1398年応永5畠山義深の子の基国が明徳の乱における山名氏討伐の戦功によって室町幕府管領に就任.以降、室町幕府管領は斯波、細川、畠山の三家が交代で就任する事となる.基国は山城、越前、紀伊守護職ともなる.
1406年応永13畠山基国が逝去.嫡男である満家は室町幕府将軍足利義満の忌憚に触れていたため、基国の次男である満慶が宗家を承継し、河内・紀伊・越中・能登守護職を得る.
1408年応永15室町幕府将軍足利義満が逝去.これに伴って、畠山満慶が兄の満家に家督を譲る.以降、満慶は能登一国守護となる.但し、能登入りの時期には諸説あり.
1432年畠山満慶が逝去し、能登畠山氏は子の義忠が承継.