成田氏_藤原北家基忠流
成田氏には2種類がある。その一つは武蔵七党の一つである横山党の成田氏。もう一つが藤原北家の流れを汲む成田氏である。このうち、横山党の成田氏は『吾妻鏡』にしばしば登場するが、戦国期にかけてもっぱら活躍するのは藤原北家流の成田氏である。
もとより、両者の関係は詳らかではない。
成田氏発祥の地である武蔵国幡羅郡は、『続日本後記』に「承和元年二月 武蔵国幡羅郡、荒廃田百廿三町、奉充冷然院」とある。
この幡羅郡を藤大夫家忠が領し、道宗の代に幡羅太郎と称したという。
こうした伝承に対しても、妻沼に式部大夫助高の墳墓があるも、それ以前の墳墓がないこと、さらに、この墓碑に式部大夫助高が武蔵国司となって幡羅郡に住んだとされるが、銘に大同元年と年月を記してあることに風土記稿は疑問を呈している。
しかしながら、幡羅郡西城という地名の由来伝承に左近少将藤原義孝の館であったというものがあることも無視出来ない。『鎌倉武鑑』にも藤原武蔵守経基の後裔である幡羅太郎道宗の孫の助高らが市ノ谷での戦功を挙げたことが記されている。
これらは、いづれも後世の成田氏系図(貞享元年成田太平山龍淵寺系図)に依拠するものだろうか。また、『源平盛衰記』の「京中焼失の事」中の治承元(1180)年の記事に小松殿の乳人子である成田兵衛為成という人物が見えるが、この人物がどのような出自なのか。
藤姓足利氏と源姓足利氏の例を引くまでもなく、同じ地を名字の地として異なる一族が興亡の歴史を刻んだことは珍しくない。かつ、小野姓である横山党に属しながら、なぜわざわざ藤原姓に付会する必要があるのかを鑑みると両成田氏に血縁的関係があるのかないのか関心のあるところである。
ともあれ、鎌倉初期までは名を馳せた横山党成田氏はやがて歴史の表舞台から消え、代わって藤原姓を伝える成田氏が登場した(繰り返すが両者の関係は判然としない)。
その藤姓成田氏は助高の代に埼玉郡上村成田に上城を築き、下総守親泰の代まで住んだという。この成田郷に隣接して、利根川と荒川に挟まれ地味の良い忍がある。この肥沃な忍の地を併合することは成田氏にとって代々の悲願だったという。成田親泰は山内上杉氏に加わっており、忍を支配する忍大丞は扇谷上杉氏に属し太田道灌と姻戚関係にあった。なおかつ、その忍の地の背後には武蔵七党児玉党の児玉大丞重行が城を構えていた。成田親泰は忍氏を姦計によって落としいれ、続いて児玉氏の居城も同様に落城させ忍を手中に収めた。文明年間(1469-1487)のこととも永正年間(1504-21)のこととも言う。
親泰の子長泰は、やがて上杉謙信に仕える。
永禄4(1561)年3月に事件は起こった。
関東管領として上杉謙信が鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣に際に謙信は長泰を作法無礼として打ち据えたのである。『関八州古戦録』にも同じく鶴岡八幡宮において成田長泰が祖先の旧例として下馬の礼をとらなかった報復として忍の支城である羽生砦を攻略したことが記されている。原因はこれだけではないだろうが、この事件を契機として、成田氏は越後上杉を離れ後北条氏に仕える。
『相州兵乱記』に、成田下総守、成田中務丞が権現山合戦、小田原寄、松山合戦の際に後北條方として上杉軍と刃を交えたことが見える。
その後、永禄9年には、長泰が家督を太田資正の婿である嫡男の氏長ではなく、次男の泰親に譲ろうとしたことから氏長が反発。宿老豊嶋美濃守も同調し、長泰は忍を追放され上野村龍淵寺に入る。そこで、氏長を追討すべこ下知を出す。しかし、家臣は氏長に家督を相続させることで一致し、説得されて長泰は出家を余儀なくされる。こうして、家中内乱の危険は去る。
こうして家督を継いだ氏長であったが、その先に家運を掛けた大きな試練が待ち構えていた。天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原攻めである。この時、忍城たる氏長は弟の左衛門佐泰高、田山豊前守、そして奈良、玉井諸将と小田原城に篭る。忍城を守るのは城代成田肥前守泰季を始め島田出羽守、今邑佐渡守、山田河内守、坂本将監、福島勘解由ら。
忍城は上杉勢の度重なる猛攻にも耐えた城であったが、この時、氏長の室である太田美濃守は討死に覚悟で城を守るように申し渡したと伝えられている。
忍城に対しては豊臣軍は館林を攻略した大将石田治部少輔三成、副将伊藤丹後守實実、鈴木孫三郎重朝、小田原方で降伏した北條左衛門大夫氏勝を始めとして大谷刑部吉隆、長束大蔵少輔正家ら2万の軍勢で押し寄せた。守る側は2600余。忍城は天然の沼地の中に築城されていたために、豊臣軍2万も苦戦を強いられる。加えて、城下の人々が隙を突いて兵糧を次々と城内に運ぶために、石田三成は袋、鎌塚、大井に堤を築いて水攻めを試みる。しかし、この水攻めも上手くはいかなかった。降雨量が少なかったことに加えて、雨が降っても出来立ての堤が決壊し却って豊臣軍に損害が出たのである。なにせ、宗祇が「あし鴨の汀ばかりの常世かな」と詠じた忍城である。
城攻めの難航に対して、浅野弾正少弼、木村常陸介、赤座久兵衛が包囲網に加わる。
それでも忍城は持ちこたえ、小田原落城後も落城しなかった。これに対して、豊臣秀吉の右筆で元佐々木承禎の家臣で成田長氏と同じく連歌を嗜む山中山城守秀俊の策を長氏が受け入れ開城の下知を下し漸く忍城は開城となった。
なお、成田氏長は下野烏山に3万7千石を与えられて大名として存続した。