後南朝
南朝は「明徳和約」により、天皇位を北朝後小松帝に譲位。
これによって、南北の円満な和解が成立したかに見えた。この「和約」では、合一後の天皇位は後小松帝とするも、その後は旧南朝後亀山上皇の皇子小倉宮実仁親王とし、それ以降は「両統迭立」とされた。しかし、足利家に支えられた旧北朝の勢力に旧南朝は次第に押され、後亀山法皇は応永17年(1410)に再び南朝縁の地である吉野へ逃れる(後南朝の開始)。
この後南朝は、後亀山天皇、良泰親王(初代、第3代)、天基天皇(2代、後亀山法皇の孫良泰親王の子、義仁親王)、泰仁親王(良泰親王の子、4代)、中興帝(5代、小倉宮実仁親王の子、尊義親王[三之公(川上村)在住]、万寿寺宮、兄宮自帝[上北山村]と弟宮忠義王[神之谷、兄宮暗殺の後も奥地に匿われる]の父)、自帝(6代、尊秀王、赤松氏により暗殺)、 興福帝(尊雅親王、7代)、西陣南帝(8代、小倉宮第四皇子・信雅親王、-1514)と続く。後南朝最後の西陣南帝は、その名に西陣の地名が冠せられている。これは、文明3(1471)年に応仁の乱を戦っていた西国の覇者、山名宗全が帝を西陣安山院に迎えたことに由来するもの。なお、西陣南帝は謎多きその後の人生を歩むことになる。一説には帝としての身分を隠し、熊沢現覚坊(母方武田支八代熊沢家)と言う偽名を用いて全国を放浪した後に尾張一の宮にて生涯を終えたとされている。
以下には熊沢家と西陣南帝を繋ぐ系譜であるが、偽譜の疑いが持たれている。南朝に正統性があるとしても政治的後ろ盾を失っていたこと、北朝が帝位を承継していること、そのために多くの南朝後胤を称する家が公に後胤を名乗らなかったことがあまりにも長きにわたったことにより、系譜の真偽は伊勢平氏清盛流の後胤を称する諸家の系譜の真偽に等しいと言える。