南部家
南部光行が文治5年に奥州藤原征伐の功により糠部郡を源頼朝より拝領したのが南部家奥州土着の由来とされる。
そもそも、南部家は新羅三郎義光の子で甲斐の武田義清の孫に当たる遠光の子である光行が甲斐国の巨摩郡南部を分知されたことを以って始まったと伝えられている。もとより伝説の域を出ない。
この点は、南部光行の糠部郡拝領に関しても同様と言える。
ともあれ、南部の宗家は三戸家とされるが、奥州においては三戸家よりも、光行の子実光(家光)の弟である実長の系譜に連なる八戸家が隆盛を極めた。ちなみに、南部宗家第10代とされる南部茂時は鎌倉幕府滅亡時に討死したという。
応永18年に13代守行が陸奥国司に任命されたとされるものの南部家の目だった活躍はない。この三戸守行が初めて奥州南部家の惣領の地位を得たともされ、南部家の奥州下向は、この守行の時代とする説もある。
南部家が活躍し始めるのは、大永4年23代安信が周辺所領を併呑し、南朝の忠臣北畠顕家の系譜を引く浪岡家を討ち滅ぼした時から。続く24代晴政は分家筋である八戸南部家と共に津軽および岩手地方をほぼ制圧。ここに「三日月の丸くなるまで南部領」と謂われる広大な版図を手中に収める。
勢力が最大になったときに危機も最大となることは歴史の教えるところ。南部家もその法則の例外を免れることはなかった。この頃、家臣団の中で分裂傾向が顕著となり、それは晴政の後継である晴継の殺害という形で現れる。
この事態に南部家では一族の石川高信の子信直が南部宗家の系譜を継ぐことで収拾を目指す。
しかし、この内部分裂を見た津軽の大浦為信は公然と南部家に叛旗を翻し、南部一族である九戸政実も独立を探るようになる。
こうした離反の動きに対して、南部信直は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣することで所領安堵を手にする(天正18)。この時点で、かつては三戸南部よりも隆盛を誇った八戸南部家は宗家三戸南部の家臣として立場が明確になる。
豊臣秀吉から所領を安堵された南部信直は豊臣秀吉の奥州仕置軍の力を借りて九戸政実を討伐(九戸政実の乱)。南部七郡を始めとして、糠部、鹿角、岩手、志和、和賀、稗貫、閉伊郡を領し盛岡藩の基礎を築くことに成功する。
なお、津軽領は大浦家が同じく豊臣秀吉より所領を安堵され独立する。この経緯から南部家と大浦(津軽)家は明治維新に至るまで対立をすることとなる。
また、八戸南部(根城南部)家は当主の相次ぐ死により振るわず、本拠地八戸から伊達家との藩境の要として遠野に転封され遠野南部家として存続した。