北畠家
北畠家は第62第村上帝の孫師房に源を発する村上源氏の一門。
宗家は久我を名乗っていたが、第5代通親の孫である雅家が京都は洛北の地に邸を構えたことを以って北畠と称した。
北畠家で一番知られているのは、南朝の忠臣で戦う公卿とも渾名された北畠親房。この親房の子の顕家が陸奥国司に、顕能が伊勢国司となりそれぞれの子孫が陸奥と伊勢で勢力を伸ばしていくこととなる。
陸奥国司の流れは浪岡北畠家、伊勢国司の流れは伊勢北畠家となっていく。しかし、南北朝時代から戦国時代に至って新勢力に圧され、浪岡北畠家は津軽を制圧した大浦(津軽)家に伊勢北畠家は織田家によって滅ぼされた。