吉川氏
吉川氏というのは藤原の南家武智麻呂の第4子である乙麻呂を祖先に持つ。その藤原氏が吉川姓を称したのは、藤原氏の祖である鎌足から数えて18代目の経義のとき。経義が駿河国有度郡吉香邑に拠点を持っていたことによる。もっとも、駿河には藤原為憲流、維清の裔という伝承が多いから本当に藤原流かというと反論もある。
ともかく、吉川というのは吉香を指し、吉香と書かれることが多かったけれども、木河とか金河と書く場合もあり、南北朝時代あたりから吉川に統一されるようになる。
その吉川家はその後、播磨国福井庄の地頭職になる。これは経義の子友兼が梶原景時を駿河の狐ケ崎に討った功による。さらに、孫の経光は承久の乱の功により、経景に安芸国佐東郡の、義景には安芸国山県郡戸谷の地頭職が与えられる。下向するのはその子、経高のとき。安芸大朝新庄に本拠を定める。経高は寒曳山南方の丘に城を築いて駿河から移る。それ以来、代々大朝庄を本拠として安芸の有力国人となる。
吉川家は勢力を伸ばし、弟の経盛は播磨へ、経茂は石見(石見国邇摩郡津淵郷地頭)へ、経時は父祖伝来の地である駿河へと移る。
後裔の経基は応仁の乱で細川勝元方に属し鬼吉川の名を欲しいままにしたことで知られる。
このうち、毛利元春が嗣いだのは石見吉川経見流。ここは毛利元就の室妙玖の実家に当たる。そして、石見吉川経見の室は安芸吉川経秋の娘。この安芸吉川家は石見尼子家と近かった。安芸とは言っても石見に近いことによる。そのために、吉川元経が毛利元就の妹と結ばれても大内方には着かない。しかし、尼子の郡山城毛利攻めが失敗した時あたりから大内方に組するようになる。とはいえ、固定的ではなく、元経の子興経は、大内氏の月山城攻撃中に再び尼子方になるなど不安定な状態が継続する。
そうした状況に危機感を抱いた安芸の毛利元就は吉川興経に不満を持つ同族の吉川経世などに働きかけて興経を毛利氏領内の布川(広島市安佐北区上深川町)へと幽閉の形で隠退に追いやり、元春を養子として送り込む。さらに、最後の止めとして、元春が吉川の家を継いで3年後の天文19年に幽閉先を襲い興経と嫡男千法師暗殺。ここで元春が名実ともに吉川氏を承継する。
広家は天正19(1591)年に豊臣秀吉から出雲富田(島根県広瀬町)14万石を拝領。関ヶ原の戦いでは東軍に内通し宗家毛利氏の危機を救う。当初、吉川家は東軍に属した功により周防、長門二国が与えられるはずであったところ、吉川広家は宗家の毛利輝元を立てて所領を差し出した。こうして、戦前は八国120万石を誇った毛利家は周防、長門二国36万9千石となって存続する。代わりに吉川家は毛利家から岩国3万石を与えられ、広家の子、広正から毛利家陪臣となる。
また、時代は下って幕末の元治元(1864)年の蛤御門の変に端を発する第一次長州征伐の際には、12代吉川経幹が征長総督徳川慶勝(尾張家)、同参謀西郷に周旋を尽くし再度宗家を滅亡の危機から救っている。
こうした働きが報いられ、慶応4(1868)年には陪臣たる地位から再び諸侯に列されている。