百済王扶餘家
古代朝鮮半島において西端を占めた国家百済を統治した一族が扶餘氏。以下には初代とされる王からの系譜を掲げてあるが、日本の大王家の系譜と同じく近肖古王から前は伝説時代あるいは神話時代に相当する。
百済王家は日本とも関わりが深く、昆(毘)支王は461年に大和に人質として滞在。後に百済王となる武寧王は日本で誕生している。
百済は蓋鹵王の代で高句麗によって滅ぼされる。その息子文周王が百済を再興するが、この文周王を支えたのが日本滞在経験のある昆(毘)支王だったとされる。昆支王の死後、百済は混乱し文周王は重臣解仇により暗殺。三斤王が王統を取り戻すが早世。その後を継いだのが、昆支王の子であり雄略帝と友好的関係を取り結んでいた東城王。その後を継いだのが日本生まれの武寧王。武寧王は継体帝、中国南朝梁の武帝と友好関係を持った。その後も、威徳王は子の恵王を日本に派遣している。
大和と百済との関係はまだまだ続く。義慈王の代には百済は唐と新羅の追撃により滅亡、多くの王族が日本に亡命してきている。義慈王の子の余豊璋は日本で亡命政権を組織し、天智帝の支援のもとで鬼室福信と合流。白村江の戦いに百済復興の望みを託すが結果は無残に終わり、余豊璋は高句麗に亡命。残された百済王族は日本に逃れ、日本の歴史のその流れの痕跡を残すのみとなる。