愛甲氏_武蔵七党_横山党
 相模国愛甲郡を発祥の地とする。武蔵七党の他の例に違えることなく、横山党愛甲氏も後に名字の地を離れて全国各地に広がっていった。愛甲郡は熊野山領であり愛甲氏は何らかの関係を持っていたと考えられている。
愛甲氏一族は源 頼朝の挙兵に参加した名族であったが、和田の乱において和田義盛に与して多くが戦死している。
元久2(1205)年、時は源 実朝の治世。坂東七平氏の名族畠山氏の重忠はその大族であるが故に鎌倉幕府から謀反の嫌疑を受ける。そして、二俣川で討たれるが、その時に幕府の追討軍にあって畠山重忠を矢で倒したのが愛甲季隆である。
しかし、その愛甲氏の本流も建暦年間に最大の危機を迎える。
建暦3(1213)年に信濃国御家人泉親平による3代将軍源 実朝、北條義時暗殺未遂事件が起こる。この事件に和田義盛の子である義直、義重そして甥の千葉胤長も一味とされたのである。和田義盛は源 実朝の信頼を得ていたことから実朝は和田一族を赦免するも千葉胤長の嫌疑は晴れなかった。ために、和田義盛は遂に第2代執権北條義時に叛旗を翻す。
これに与したのが、和田合戦に愛甲、海老名、渋谷、そして横山氏といった武蔵七党横山党の諸氏。愛甲氏からは愛甲小太郎義久ら一党が加わった。
これによって、多くの愛甲一族が討伐された。
さて、愛甲季隆は源 頼朝から上野国松井田のうちに領地を下賜されている。これ以外にも、庶流の愛甲小太郎忠雄は文治2(1186)年に島津忠久に従って大隅国吉松郷に下向している。
この南九州に渡った愛甲氏は和田合戦における嫡流の滅亡から結果として逃れることが出来た。後に肥後国で有力御家人として台頭する愛甲氏もその流れと思われる。