西尾城

愛知県は西尾にあるお城。

別名を西条城と言います。西条城があるからには近くに東条城があるはずだということはおいておきます。

起源は古く、足利義氏が、三河守護に任命されて、幡豆郡吉良庄西条に城を築いたのが始まりと伝わります。

吉良家は駿河守護今川家の本家に当たります。

足利直義派と高師直派が対立した観応の擾乱[1349-1352]では吉良満義・満貞は足利直義方として戦います。足利直義の死後も吉良満義・満貞は宗家である足利尊氏に叛旗を翻したままでした。

しかし、1356[正平11]年に吉良満義が死去すると、吉良家の被官の一部が吉良満貞の弟の尊義を当主として擁立し足利尊氏派に転向します。これが東条吉良氏の始まり。そして、この一連の出来事により名門の吉良家は三河守護には任ぜられず三河の国人領主に留まることとなりました。

その後の代、吉良義堯は今川氏親の娘を妻として、義郷、義安、義昭をもうけます。東条城主の吉良持広に子がなかったため、義安は東条吉良持広の養子となります。義郷[-1537]は西条吉良家を継ぎますが討死。西条吉良家の家督は義昭が継ぐこととなりました。

1549[天文18]年、今川義元[1519-1560]が織田信秀の子・織田信広[-1574]が城将を務める安祥城を攻めた際に、東条吉良義安は織田方に与して戦ったために今川方に捕らえられ駿府に送られます。そして、今川義元は西条吉良義昭に東条吉良家の家督も受け継ぐように命じ、ここに二つの吉良家は統一されることとなります。

1560[永禄3]年に桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗死すると、徳川家康は今川家から独立を図ります。これに対して、吉良義昭は徳川方の酒井将監忠尚の守る上野城を攻撃。徳川家康は酒井政家に命じて西条城を攻撃させ落とします。酒井政家を城代に命じ西条城を西尾城と改めさせると、土井城主・本多豊後守広孝、東条松平家家老の松井左近忠次らに東条城を攻めさせます。間もなく、吉良義昭が逃亡し、東条城も落城。

ここに徳川家康は西三河をほぼ制圧することとなります。

吉良氏の系譜

posted by N.Tateno.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.