加久藤城


2019/04/27

宮崎はえびのにある城.
北原氏が築城した城であったが,1564[永禄7]年に島津忠平[義弘]が改修し加久藤城として入城.
北原氏は日向国真幸院を本拠としていた一族であったが,1560[永禄3]年に当主の北原兼守が後継のないままに死去.兼守の娘を兼守の叔父・兼孝の息子に娶らせ,北原宗家を継がせるはずが,娘も死去.親族一同により兼孝が擁立されそうになると,伊東義祐が介入.馬関田右衛門を北原兼守の未亡人と婚姻させて北原氏領の併呑を進めた.
これに対して,北原一族は兼孝をあくまでも擁立しようと試みたことから,伊東義祐は北原兼孝を暗殺してしまう.

このような事態に,島津氏の家臣の樺山幸久は,隣国の相良頼房の元に落ち延びていた北原兼親に北原氏を継がせるべく奔走.北原兼親は島津氏の支援の下,相良氏の援軍を伴って東福寺[馬関田]城を攻略,飯野城に入り真幸院の北原氏領を回復するに至った.しかし,近隣の情勢は不安定であり,一族の中には伊東氏に内通するものもあったため,島津義弘が真幸院を統治することとなった.
元城主であった北原兼親は伊集院に移され,同時に加久藤城には島津義弘の広瀬夫人とともに川上三河守忠智が入る.島津忠平は飯野城に移った.

加久藤城は1572[元亀3]年に伊東軍の標的となり猛攻に晒される.しかし,伊東軍は加久藤城を落とすことが出来ず,木崎原に撤退.木崎原で島津軍と伊東軍の激戦が繰り広げられ,島津軍の勝利となった.

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