山川綾戸城

藤原秀郷流藤原氏の流れを汲み,下野国最大の武士団を率いた小山政光の子孫・結城朝光の長男朝俊は平方氏,三男時光は寒河氏,四男重光は山川氏,五男朝村は網戸氏を起こしました.結城朝光[1168-1254]の母親は源頼朝[1147-1199]の乳母・寒川尼[1137-1228].その関係から小山一族は鎌倉幕府で重きをなしました.

山川重光は下総結城郡山川荘の地頭職に任じられ,山川氏の祖となり,山川綾戸城から少し北にある山川氏館に居を構えていました.山川氏は,多賀谷・水谷・岩上とともに結城の四老とか結城四天王と後に称される名門.但し,山川氏はその始まりから結城氏の重臣として活動していた訳ではありません.結城氏の重臣というよりは同盟者として勢力を誇っていました.もっとも,1438[永享10]年に鎌倉公方・足利持氏が関東管領・上杉憲実が対立し足利持氏が自刃に追い込まれた永享の乱の後の1440[永享12]に,結城氏朝[1402-1441]が持氏の遺児の春王丸・安王丸を擁立して挙兵した結城合戦では山川氏は結城城に籠城しています.室町幕府第6代将軍・足利義教[1394-1441]は隠遁した関東管領・上杉憲実に代わって,その弟の越後上条城主・上杉清方[1412-1444]を総大将として結城城攻めに派遣.結城城は攻め落とされ結城氏朝・持朝父子は討死.結城一族は雌伏の時期を余儀なくされます.

結城氏の所領は結城成朝が復権を果たすまで山川氏義が支配.結城成朝が復権後も大きな影響力を維持します.

その後,山川氏は結城氏とともに小田原北条氏と越後上杉氏の間を巧みに渡り歩いて家名の存続を図ります.綾戸城を築城し山川氏館から本拠地を移したのは1565[永禄8]年.この城で,山川晴重は下野祇園城から攻め寄せる北条氏政の軍勢を退けたと伝わります.


2018/01/20

このように,山川氏の拠点であった重要な城ではありますが,今は写真の通りに僅かに三の丸西側の土塁の一部が残されているのみです.

なお,山川朝貞が越前に移った後は,松平定綱,水野忠元が入り下総山川藩の藩庁が置かれました.その後は天領とはなりましたが代官屋敷が置かれ城はそのまま使われたといいます.

山川氏重

山川直貞の子.山川綾戸城を築城し山川氏館から本拠地を移しました.

海老ヶ島城の戦いにおいて,結城政勝の命によって,水谷正村,岩上但馬守,多賀谷政広ら結城軍,援軍の小山高朝の家臣榎本高満,足利晴氏の家臣梁田晴助,北条氏康の家臣太田康資,太田資正,遠山丹波守,富永三郎左衛門らと小田氏が支配する海老ヶ島城を攻撃.城将・平塚長春を討ち取り.第一次山王堂の戦いにおいては小田氏治を攻め,小田城から追放.

山川晴重

山川氏重の子として1566[永禄9]年に生まれ,結城晴朝[1534-1614]から偏諱を受けて晴重と名乗ります.

1590[天正18]年,豊臣秀吉が北条氏を下すと,山川氏は結城氏とともに本領安堵.

山川朝貞

山川晴重の子.父とともに徳川家康の子で結城家の家督を承継した結城秀康に従いました.結城秀康が越前国に加増転封となると,それに従って関東を去りました.越前国吉田郡花谷館17,000石.

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