新田目城

新田目城[Aratame Castle]は山形は酒田にある留守氏の居城.

現在は大物忌神社の境内となっている地は,出羽国府に近いということから出羽国留守所と考えられてきました.

新田目城を本拠地とした留守氏は源義家[1039-1106]が前九年の役[1051-1062]の後に出羽国留守所職として派遣した須藤氏を祖とすると伝わります.

戦国時代になると,留守氏は来次氏に圧迫を受け,大宝寺氏の旗下に入ります.さらに,1583[天正11]年に大宝寺氏の重臣・東禅寺義長[1544-1588]が自らが擁立した大宝寺義氏[1551-1583]に叛旗を翻した際,留守義氏は大宝寺氏に与しています.東禅寺義長は最上義光[1546-1614]の支援を受けて大宝寺義氏を殺害.尾浦城に籠城した大宝寺義氏の弟・義興[1554-1587]も最上軍に包囲され落城.義興も自害してしまいます.大宝寺義興から養子として迎え入れられていた本庄繁長[1540-1614]の次男・大宝寺義勝[1573-1623]は辛うじて脱出し,実父・本庄繁長のもとへと逃れます.

こうして,庄内地方は実質的に最上氏の支配するところとなり,東禅寺義長の統治が始まります.

この騒乱の中,新田目城も最上氏に攻められます.

1588[天正16]年,最上氏に反発する庄内の国人衆の求めに応じ,大宝寺義勝を擁立した本庄繁長が上杉軍を率いて庄内地方に侵攻.十五里ヶ原の戦いで,東禅寺義長・勝正を討ち取り,庄内地方を取り戻します.

その後,留守氏は大宝寺氏に引き続き仕えます.しかし,豊臣秀吉の奥州仕置軍が撤退した後,領内で金右馬允らを首班として太閤検地に反対する庄内藤島一揆が勃発.上杉家重臣直江兼続によって一揆軍は殲滅されます.この一揆の責任を問われ,大宝寺義勝は領地を没収.後に,文禄の役の功を認められて上杉氏に仕官.留守氏はこの間も上杉氏の家臣となり存続しますが,上杉景勝と最上義光・伊達政宗が干戈を交えた慶長出羽合戦[東の関ケ原;1600]での敗戦によって帰農し,今井を名乗るに至りました.

posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.