水口城

近江は旧甲賀郡の中央部にある水口にあるお城.水口には1585[天正13]年に大岡山に豊臣秀吉の命により中村一氏[-1600]が水口岡山城を築城.城下町が整備されます.

その後,1590[天正18]年には豊臣政権五奉行の増田長盛[1545-1615]が,1595[文禄4]年には同じく豊臣政権五奉行の長束正家[1562-1600]が水口岡山城の城主となります.長束正家は関ケ原の戦いでは西軍に与し,西軍が敗れた後に,水口岡山城に逃れます.ところが,亀井茲矩・池田長吉に攻められて開城し捕縛・切腹となります.

水口岡山城は廃城となりましたが,1601[慶長6]年に,徳川家康が水口を東海道の宿駅とします.徳川家康自身も上洛の途上でしばしば水口に立ち寄った他,1620[元和6]年には徳川秀忠の娘・和子[東福門院;1607-1678]が後水尾天皇のもとに入内するに際して御茶屋が築造されます.更に,1638[寛永11]年に徳川家光が上洛する際に御殿が築造されます.これが水口城です.

小堀政一[小堀遠州;1579-1647]が作事奉行を務め,京都大工頭中井正純のもとで築城されました.

しばらくは番城として旗本や大名が城番として管理.1682[天和2]年に伊予松山城を築城した加藤嘉明[1563-1631]の孫・明友[1621-1684]が2万石で入り水口藩が成立します.加藤明友の子・明英[1652-1712]は加増され若年寄となり1695[元禄8]年に下野壬生に転封.代わって,能登下村から鳥居忠英[1665-1716]が水口に入ります.1712[正徳2]年に鳥居忠英が加増の上で下野壬生に転封されると,下野壬生藩より加藤明英の嗣子・嘉矩[1693-1724]が水口に入り,以降,加藤家が明治維新まで水口城主を務めました.

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