白井城

利根川と吾妻川の合流点にある崖端城。関東管領山内上杉家の家宰にして上野・武蔵守護代だった長尾景仲[1388-1463]の築城と伝わります。

長尾景仲は鎌倉長尾家の長尾房景と白井長尾家の長尾清景の娘との間に生まれました。そして、母方の伯父・長尾景守の養子となって白井長尾氏の家督を承継。

第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことに端を発した享徳の乱に際して、長尾景仲は白井城を築城したと考えられます。

その後、白井城は白井長尾家の本拠地となります。長尾景仲の孫・景春[1443-1514]は北条早雲こと伊勢宗瑞と並ぶ関東における下克上の雄とされていますが、その景春は総社長尾家の長尾忠景[-1501]との対立から山内上杉家の上杉顕定[1454-1510]に叛旗を翻します[長尾景春の乱]。上杉顕定によって白井城は落城し、白井長尾家をバックアップしてきた第2代古河公方・足利政氏[1462-1531]が山内上杉顕定と和睦すると白井城主・長尾景春は窮地に立たされます。長尾景春はあくまでも山内上杉家と対立する道を選びますが、子の景英[1479-1527]は山内上杉家に戻ります。

白井城は山内上杉顕定の養子の上杉憲房[1467-1525]が越後守護代・長尾為景を討伐するために駐屯。越後で上杉定実を擁する長尾為景によって関東管領山内上杉顕定が討死すると、足利成氏の次男で山内上杉顕定のもう一人の養子である上杉顕実[-1515]が関東管領職を継ぎます。

しかし、長尾景英は上杉憲房を支えて上杉顕実を追放することに成功。この功によって白井城を返還されたといいます。この時点で、長尾景春は対立の姿勢を崩していませんでしたが、既に劣勢覆い難く、息子・景英に白井長尾家の家督を譲っていたといいます。

長尾景英の子の景誠[1507-1528]は総社長尾顕景や越後守護代長尾為景と同盟し、関東管領・上杉憲寛[-1551]に叛旗を翻します。しかし、関東管領方の上野長野業正[1491-1561]に攻められ降伏。これを契機として、長野業正の姉を正室にしたとされます。しかし、関東管領家内での山内憲寛[-1551]と憲政[1523-1579]との家督争いに絡んで、長尾景誠は家臣に暗殺されます。そして、長野業正の支援を受けて総社長尾家から長尾憲景[1511-1583]が白井城に迎えられ白井長尾家を継ぎます。

北条氏からの圧迫を受けた関東管領・山内上杉憲政が越後の長尾景虎を頼って亡命した後、武田信玄が西上野侵攻を開始。武田軍の真田幸綱・信綱父子によって白井城は落城。この時、白井城主・長尾憲景は次男・輝景[-1598]に家督を譲った上で武田の軍門に下りました。

1582[天正10]年に武田勝頼が織田信長によって討たれると、織田家の滝川一益[1525-1586]の支援を受けて白井城を奪還します。それも束の間、織田信長が本能寺の変[1582年]で斃れると、北条の支配下に入り、白井長尾輝景の弟・景広[1573-1630]を北条氏政[1538-1590]のもとに人質として差し出しました。やがて、白井長尾輝景が病に倒れると親北条派家臣団によって景広が白井長尾家の当主として擁立されます。ところが、時代は豊臣秀吉の時代となり、小田原征伐によって白井長尾氏は白井城を開城、越後の上杉景勝[1556-1623]の家臣となります。

白井城には江戸時代に入っても白井藩の城として利用され本多家、松平家、井伊家、西尾家、本多家と続きますが本多紀貞[1580-1623]が嗣子なく死去すると白井藩は廃藩となり白井城も廃城となりました。

2016年4月2日訪問。

posted by N.Tateno.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.