箕輪城

群馬は高崎の榛名白川によって造られた河岸段丘にある梯郭式の山平城.西の榛名白川,南の榛名沼を天然の堀としていました.

永正9(1512)年に長野業尚によって築城されたとも,大永6(1526)年に長野憲業(信業)によって築城されたとも伝わります.

長野憲業(−1530年11月26日)は長野尚業の子とされる人物.関東管領上杉顕定(1454-1510),その養子の上杉憲房(1467-1525)に仕え「憲」の一字をうけて名を信業から憲業に改めました.

長野憲業は惣社長尾氏,白井長尾氏との勢力争いの中で長野氏の版図を拡大.長野氏は長野郷浜川館を本拠としていたが,長野業尚の代に鷹留城に本拠地を移したといいます.このことからすると,箕輪城を築城したのは長野憲業と言えるかもしれません.

長野憲業は箕輪城を築城して本拠地を移すと長男の業氏に鷹留城を譲りました.そして,大永7(1527)年には惣社長尾氏の長尾顕方を厩橋長野氏の長野宮内とともに挟撃しています.長尾顕方は古河公方・足利成氏の次男の上杉顕実と上杉憲実の子・周清の子の上杉憲房との間で勃発した関東管領上杉顕定の後継争い(『永正の乱』)で上杉顕実を支持し,上杉憲房を擁立した足利長尾氏の長尾景長らに敗れ山内上杉家の家宰の地位を失っていました.

このため,惣社長尾顕方は後北条氏第2代の北条氏綱(1487-1541)に通じて山内上杉家に対して謀反を企てました.このことを原因として,上杉憲房の命を受けた長野憲業によって攻め立てられたのです.なお,惣社長尾氏は越後の長尾為景の仲介もあって山内上杉氏に復帰し,長野氏による惣社長尾氏攻撃も終息します.しかし,山内上杉家内での長野氏の地位は間違いなく高まっていました.

憲業は箕輪城を次男の業政に譲り,自らは吾妻郡猿ケ京城に移りますが,享禄3(1530)年に吾妻で討死します.憲業から箕輪城を引き継いだ長野業政(1491-1561)は姉が嫁いでいた白井長尾家の長尾景誠(1507-1528)が家臣に討たれると白井長尾家の家督相続に介入し実権を握るようになります.

天文15(1546)年4月20日,関東管領山内上杉憲政,扇谷上杉朝定,第4代古河公方足利晴氏が連合して,第3代北条氏康と戦った河越夜戦で,連合軍が大敗を喫します.扇谷上杉朝定は討死し扇谷上杉家自体が事実上崩壊した他,関東管領山内上杉憲政も大勢の将兵を失ってしまいます.その後,更に,信濃国志賀城主笠原清繁からの救援要請を受けて信濃に侵攻し武田信玄と戦った小田井原の戦いに,長野業政の諫言を無視して出陣し大敗します.これを契機として,山内上杉氏の家臣であった三田氏,藤田氏,大石氏,小幡氏,赤井氏,那波氏が北条に下って行きます.

天文21(1552)年に安保氏の守る武蔵御嶽城が北条軍によって落城すると,山内上杉家の本拠地の上州平井城の維持が困難になります.その中,長野憲業は安中氏らとともに那波氏を通じて北条氏の軍門に下ります.これによって,関東管領山内上杉憲政は上州平井城を捨てて越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って上州から亡命します.

もっとも,長野業政らは北条氏の完全な支配下に入った訳ではなく,永禄3(1560)年に長尾景虎(上杉謙信)が山内上杉憲政を奉じて関東に侵攻すると,総社長尾氏・白井長尾氏とともに長尾景虎(上杉謙信)の傘下に入っています.その翌年の永禄4(1561)年,長野業政は病死し三男の業盛が箕輪城主となります.

長野業政の死後,武田信玄は西上野侵攻を本格化.吾妻から武田信玄配下の真田軍が進撃してきます.箕輪城と別城一郭と呼ばれた鷹留城との連絡路を白岩の戦いで断った武田軍は,永禄9(1566)年に2万の大軍で箕輪城を包囲.長野業盛は一族郎党と自害して果てました.

武田信玄は春日虎綱・真田幸綱を城代に据え,続いて,浅利信種が北条氏との三増峠の戦いで討死するまで城代を務めました.その後を内藤昌秀(1522-1575)が長篠合戦で討死するまで城代となりました.

武田勝頼が織田信長によって滅ぼされると滝川一益が箕輪城を支配下に置きます.その支配期間は極めて短く,織田信長が本能寺で討たれると,北条氏の支配下となり,本丸堀が新たに掘られます.その北条氏が小田原征伐で豊臣秀吉に敗れ,関東に徳川家康が封じられると,箕輪城には井伊直政(1561-1602)が徳川家の中で最高の12万石で封じられました.

2016年4月2日訪問.

posted by N.Tateno.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.