高越城

岡山は荏原にある城で,鎌倉時代の弘安の役(1281)の際に,第8代執権・北条時宗(1251-1284)の命によって,山陰・山陽の6万の御家人を率いて九州に出陣した宇都宮氏第8代・宇都宮貞綱(1266-1316)によって築城されたと伝わります.

荏原荘には下野国那須郡内を本拠地としていた那須氏の那須与一宗隆(1169-1189)が,1187年(文治3)年に源頼朝から丹波,信濃,若狭,武蔵,備中5ヶ国の荘園を賜り,弟の那須小太郎宗晴が備中荏原庄に下向・土着し備中那須氏として小菅城を築城しています.備中那須氏は,1532(天文元)年頃まで隣の三村氏と争いを繰り返しながら荏原を勢力圏としました.

その後,備中国人衆であり,室町幕府政所執事を務める伊勢氏(桓武平氏維衝流)の一族の備中伊勢氏が備中那須氏の衰退に伴って高越城を手中に納めます.そして,1432(永享4)年に伊勢盛定の子として伊勢盛時は生まれました.

高越城主・伊勢盛定は備中伊勢氏の宗家ではなく庶子ではありましたが,本宗家の室町幕府政所執事・伊勢貞国(1398-1454)の娘を妻として迎えていました.伊勢貞国は室町幕府第6代将軍足利義教(1394-1441)の嫡男・義勝を養育した人物でもあります.足利義勝は父親の義教が1441(嘉吉元)年に嘉吉の乱で播磨・備前・美作守護の赤松満祐によって暗殺されると第7代室町幕府将軍になっています.もっとも,足利義勝は幼少で早世し,室町幕府の将軍職は弟の足利義政に受け継がれます.

法泉寺にある高越城主・伊勢盛定と盛時の墓

伊勢盛時は伊勢氏の本家である京都の伊勢家の養子となり室町幕府に仕官します.

1467(応仁元)年には第8代将軍足利義政の継嗣争いに,室町幕府三管領職の畠山氏,斯波氏の継嗣争いが絡み合って応仁の乱が勃発.そして,細川勝元の東軍に加わるために,駿河守護今川義忠(1436-1476)が上洛します.この時,今川義忠の申次は伊勢貞国の子の貞親(1417-1473)が務め,その伊勢貞親への申次を伊勢盛定が務めていました.この縁によって,伊勢盛定の子の北川殿が今川義忠の正室として嫁ぐことになったのです.

さて,この伊勢盛時こそは後に関東に覇を唱えることになる伊勢宗瑞,つまり,一般には北条早雲として知られることになる人物です.

ちなみに,伊勢盛時には貞興という兄がいましたが早世したらしく,盛時は早くから備中伊勢氏の嫡男として活躍していました.京都に行ってからは,室町幕府第9代将軍・足利義尚の申次衆となり,1492(明応元)年からは室町幕府の奉公衆になっています.

2015年4月29日訪問.

posted by N.T.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.