墨俣城

豊臣秀吉の一夜城で知られる墨俣城。『前野家文書(議論あり)』によると、豊臣秀吉による墨俣城は、二階建ての高ヤグラが5棟、長屋のような平ヤグラが3棟が建っていたといいます。

墨俣城は、1566(永禄9)年に織田信長が斎藤義龍亡き後、子の龍興が跡を継ぐと直ぐに、美濃侵攻のために豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)に命じて築城させたもの。

墨俣の地は長良川、犀川、木曽川が合流する洲の股と言われた要衝の地。1561(永禄4)年に斎藤義龍が死去した直後に、織田信長は木曽川を渡河し美濃国海津郡勝村に侵攻します。これに対して、美濃斎藤家を継いだ龍興を当主と仰ぐ斎藤家は長井甲斐守、日比野下野守が墨俣城から6000の兵を率いて、安八郡森部において織田信長軍と激突しています。墨俣の地には豊臣秀吉による一夜城以前に城砦が築かれていた事は墨俣が交通の要衝の地であることを考えると当然と言えるかもしれません。


築城犠牲者の墓

そもそも、墨俣城は初代美濃国守護・土岐頼貞の五男の土岐頼連が築城したのが始まりとされます。1350(観応元)年、土岐頼連は第2代美濃国守護・土岐頼遠の跡を甥の土岐頼康が継いだことに異議を唱えて叛乱を起こします。土岐頼遠は光厳上皇に狼藉を働いたために足利直義によって処刑(1342)されたことを受けての家督の相続(1353)だったので一族が混乱したことも頷けます。上皇の牛車に対して「院と言うか。犬というか。犬ならば射ておけ」と言い放ったことは有名です。

しかし、第2代室町幕府将軍足利義詮が叛乱を鎮圧し、土岐頼連と叛乱に加わった土岐頼直は処刑されます。これによって墨俣城は城主がいない状態となりますが、後には長井氏などが城主として墨俣城に入っています。

さて、森部合戦においては長井甲斐守、日比野下野守が討ち取られたために斎藤軍は崩壊。織田信長軍の勝利に終わります。ちなみに、この戦いで前田利家は頚取り足立こと足立六兵衛を討ち取り織田家への帰参が許されています。

織田信長は墨俣城を手中に収めますが、斎藤家は至近距離にある本拠地である稲葉山城から度重なる攻撃を行います。この結果、織田信長は墨俣城を一時放棄しています。

こういった歴史もある戦略的拠点が墨俣なのです。

posted by N.Tateno.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.