館林城

群馬は館林にある館林城は梯郭式と連郭式を組み合わせた平城で、1530[享徳3]年に赤井照光が築城したとも、1556[弘治2]年に赤井照康が築城したのが起源ともされます。

館林城には霊狐の尾曳伝説という助けた子ぎつねの縁で城の縄張りを教えてもらったという伝承があります。この伝承には赤井照光が登場します。

ともあれ、鶴生田川[Tsuruuda River]を水源とする城沼に突き出した台地の上に築かれ、三方を城沼に囲まれた天然の要害となっています。

赤井氏は藤原北家の藤原小黒麻呂[733-794]の末裔もしくは清和源氏一族とされる上野国佐貫荘の領主。もともとは藤原秀郷流の佐貫氏、そして佐貫氏庶流の舞木氏の被官であったものの、戦国時代に主君に取って代わりました。

館林城が歴史上に登場するのは、1471[文明3]年に上杉顕定配下の長尾景春、太田道灌が館林城主・赤井綱秀[文屋三郎;信濃守]・高秀[文屋六郎;刑部少輔・若狭守]を攻めたというのが初めて。この享徳の乱の当時、初代古河公方・足利成氏[1434/38-1497]方であった高師久が赤井綱秀・高秀とともに籠城しています。この戦いで館林城は落城しますが、赤井氏は引き続き赤井城を拠点として勢力を維持。1547[天文16]年には小泉城の富岡氏とともに第4代古河公方・足利晴氏[1508-1560]方として活動しています。

1562[永禄5]年に、上杉謙信が関東に侵攻すると、北条氏に属していた赤井照景は耐え切れず降伏。赤井照景[1548-1573]は許されて宇都宮広綱[1545-1576]に保護。しかし、宇都宮家の騒動に巻き込まれ殺害され赤井氏は滅亡となります。館林城には赤井照景の姉婿で上杉謙信の配下となっていた足尾長尾景長[1527-1569]が入ります。その後、由良成繁[1506-1578]の三男で足尾長尾景長の婿養子の長尾顕長[1556-1621]、広田直繁が城主を務めます。なお、広田直繁は、羽生城主・木戸忠朝の実の兄。兄弟は一貫して上杉派でした。その広田直繁は館林前城主で北条氏に通じていた長尾顕長に謀殺されます。

1585[天正13]年に、長尾顕長が実権を握ったことで、北条氏が奪還するも、1590[天正18]年の豊臣秀吉による小田原征伐によって開城。長尾顕長は常陸の佐竹義宣に仕官した後に浪人。その子の宣景は土井利勝[1573-1644]に仕官。ともあれ、徳川家康の江戸入府以降は徳川四天王の榊原康政[1548-1606]が入り壮大な構えに作り直しました。

posted by N.Tateno.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.