牛込城

神楽坂にある光照寺の一帯は北条氏康の家臣・大胡重行の居城にあたります.

大胡重行は扇谷上杉朝興に仕え上野大胡城の城主でしたが,扇谷上杉朝興が河越城で落命すると小田原北条氏を頼って神楽坂に落ち延びました.天文年間(1532-55)のこととされています.

1555(天文24)年,大胡重行の子の勝行は大胡という姓を城のある牛込に改めて,赤坂,桜田,日比谷を領します.しかし,1590(天正18)年に北条氏が豊臣秀吉に敗れた後,江戸に入った徳川家康に従い家臣となります.その際に,牛込城は破却されました.

大胡氏

大胡氏は,赤城山の麓の上野国勢多郡大胡を発祥の地とする藤原氏秀郷流足利氏の一族.

藤原秀郷は,藤原氏北家房前の子・左大臣藤原魚名の子孫で,平将門を討伐した戦功によって下野・武蔵の両国司と鎮守府将軍に任ぜられました.その子孫は千常,千侑,兼光,頼行と歴代鎮守府将軍に任命されます.また,文侑の子の文行は下野守になっています.11世紀前半の頼行・行範兄弟は藤原道長に仕えています.その他の一族も下野を中心に武蔵・相模へと拡がっていきました.しかし,藤原頼行が鎮守府将軍の職を,同じく藤原道長(966-1028)に仕える河内源氏の源頼信(968-1048)に奪われ,その職が頼信の子の頼義(988-1075)に受け継がれると京都における地位を失ってしまいます.

牛込城址

そして,藤原頼行は京都と下野国を頻繁に往復していましたが,その子の兼行は上野国佐位郡淵名を開墾して本拠地とするに至ります.その子の成行は足利大夫とも呼ばれ一族として初めて足利に進出した人物として知られています.そして,家綱,郡内棟梁と呼ばれた足利太郎俊綱と続き,平安末期には小山氏と並んで一国之両虎とまで呼ばれる一大武士団を形成します.この一族の中から足利氏,淵名氏の他に,林・長沼・薗田・大胡・佐貫・佐位・那波・山上・佐野・部矢古・深栖・利根・阿曽沼・木村などの諸氏が出ることになります.

淵名兼行の孫・重俊は赤城山の麓の上野国勢多郡大胡に本拠を構え大胡氏を名乗りました.これが大胡氏の始まりとなります.

治承・寿永の乱では大胡三郎実秀が源範頼(1150-1193)の九州征伐に従軍しています.鎌倉時代には大胡小四郎隆義・実秀父子が浄土宗の開祖・法然(1133-1212)に帰依したことが知られています.鎌倉幕府滅亡時には大胡氏は北条得宗家と命運を共にしたとも言われ,大胡氏の嫡流は断絶したと考えられています.

その後,同じ藤原秀郷流の益田行綱が大胡城を築城し大胡氏を名乗ります.大胡(益田)行綱の跡は行茂が継ぎ,次に修茂が大胡城主となります.この大胡修茂の代に那波氏による攻撃が激しくなり,修茂の子の茂政の時,大胡城は那波氏によって落城.大胡一族は関東管領山内上杉氏の上野国守護代長尾氏の下で箕輪衆を束ねる上州長野氏の旗下に入ります.厩橋長野氏は進出し、大胡氏に代わって大胡を支配下に納めます.

牛込城近くにある赤城神社

関東管領・山内上杉憲政(1523-1579)は,1546(天文15)年5月19日に北条氏第3代の北条氏康(1515-1571)家臣で玉縄城主・北条綱成(1515-1587)が守る河越城の攻略に失敗し(『河越夜戦』)上野平井城に逃げ帰ります.続いて,1547(天文16)年には村上氏の要請によって信濃志賀城救援のために信濃に侵攻するものの佐久郡小田井原の戦いで武田信玄に大敗します.この相次ぐ大敗によって,伊勢崎の那波氏,国峰城の小幡氏,館林の赤井氏,忍城の成田氏,勝沼城の三田氏,藤田氏,大石氏が離反して北条の軍門に下ります.

1552(天文21)年には足利長尾氏寄子・安保氏が守る御嶽城が北条軍によって落とされると,上州長野氏の中心である箕輪長野氏,安中氏といった河西衆が離反.関東管領・山内上杉憲政は上野平井城を維持出来なくなり,山内上杉家の家宰である足利長尾氏のもとへと退去しようとしますが,足利長尾氏は北条軍の攻勢によって本領の足利に封じ込められ,更に,東上野の横瀬氏を頼ろうとするも横瀬氏も北条方の那波氏と赤井氏から挟撃されている状態であり果たせず,越後の長尾景虎(上杉謙信)の庇護を求めて国を去っていきました.

このような状況の中,大胡重行は北条氏康の家臣となり牛込の地を所領として宛がわれたのです.

2016年2月27日再訪

posted by N.Tateno.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.