駿府城

室町時代に駿河守護今川家によって建てられた府中館が起源の駿府城。上杉禅秀の乱[1416]を鎮圧したことで知られる今川範政[1364-1433]が1411[応英18]年に葉梨荘から移って今川館を建てました。

その後、今川義元[1519-1560]が1560[永禄11]年に桶狭間で織田信長に討ち取られると、その子・今川氏真[1538-1615]の治世の1568[永禄3]年に武田信玄が駿河に侵攻。瀬名信輝、葛山氏元、朝比奈政貞、三浦義鏡を初めとする駿河国人21人が叛旗を翻し武田方に与したため府中館を放棄し、朝比奈泰朝の守る掛川城に逃れました。

駿府は武田軍が占拠し、府中館は灰燼に帰してしまいます。

府中館は徳川家康[1543-1616]が人質時代を過ごした地でもあります。

時代は流れ、1582[天正10]年に武田勝頼[1546-1582]が滅びると駿河は徳川家康の支配するところとなり、1586[天正14]年に徳川家康は浜松から駿河に移り駿府城の築城を始めます。

しかし、豊臣秀吉[1537-1598]による小田原北条征伐により徳川家康は関東へと国替え。豊臣秀吉の命により、豊臣政権の三中老の1人となる中村一氏[-1600]が徳川家康の抑えとして駿河府中14万石を拝領し駿府城に入ります。

豊臣秀吉の死後、関ケ原の戦い[1600]に勝利した徳川家康は、中村一氏の死後に駿府城主となっていた中村忠一[1590-1609]を伯耆米子17万5,000石に移封。

駿府城には徳川家康の異母弟の内藤信成[1545-1612]が入ります。1606[慶長11]年には内藤信成は長浜城主となり、徳川家康自身が再び駿府城に入りました。ここに駿府は大規模な土木工事が行われ新しい城下町として生まれ変わりました。

今川家の系譜

posted by N.Tateno.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.