松平氏館

愛知県は豊田にある松平氏発祥の地です。

上野国新田郡世良田荘得河郷から徳阿弥という僧が来て、松平太郎左衛門信重の婿となったのが徳川氏の始まりとされています。

新田義重[1114-1202]の四男・義季[-1247]が現在の新田荘得川[群馬県尾島]に本拠を構えて得川を名字とします。もっとも、同じ新田荘の世良田郷[群馬県太田]も父親から譲られ世良田郷の地頭にもなっています。得川義季の長男・頼有[下野四郎太郎]は得川郷を相続し得川を名乗ります。一方、次男・頼氏は世良田郷を相続して世良田を名字としました。世良田頼氏は世良田弥四郎と称して周辺の土地を更に開拓し新田一族の有力者として台頭していきます。

この時、新田家の惣領は新田政義[1187-1257]でした。しかし、祖父・新田義兼[1139-1206]の妻・新田尼が、足利義純に嫁いでいた新田義兼の娘・来王姫が義絶され、ともに新田に戻ってきた、その子の岩松時兼に所領の多くを譲ってしまいます。足利義純による来王姫の義絶は、滅んだ名門・畠山家の名跡を承継するために、北条時政の娘で畠山重忠の未亡人と婚姻したことによります。

さらに、1244[寛元2]年に新田政義は京都大番役として在京時に鎌倉幕府に無断で検非違使への任官を朝廷に求めます。新田家の惣領でありながら経済的に厳しい状況に置かれていたことが原因だったのでしょうか。朝廷は鎌倉幕府との争いを避けて任官の要求を拒否。新田政義は抗議の意味も込めて出家して新田荘に帰国してしまいます。この行為の責任を鎌倉幕府から問われ、新田政義は惣領職を剥奪。庶家の世良田義季と岩松時兼が半分惣領として引き継ぎます。世良田義季の死後、半分惣領職は頼氏に引き継がれます。しかし、鎌倉幕府執権の北条時宗[1251-1284]の異母兄・北条時輔[1248-1272]が二月騒動[1272]で討ち取られると連座して佐渡に配流。

半分惣領職は頼氏の次男教氏に受け継がれます。そして、家時、満義と続き、世良田満義は新田義貞とともに鎌倉幕府倒幕で活躍します。宗良親王・尹良親王父子に仕えた世良田満義は信濃浪合村において尹良親王、羽河景庸、熊谷直近とともに討死。政義の子の政親は尹良親王の子の良王を伴って三河国に逃れ没したとされます。同じく三河に逃れた政親の弟・親季とその子・有親も三河国に逃れます。世良田有親の子の親氏が松平郷の松平太郎左衛門信重家に入り婿して松平親氏と名乗ったことが三河松平氏の始まりだとされています。もっとも、三河に逃れて以降の話は伝承の域を出ません。

松平家系譜

徳川家康以前に分かれた松平一族は十八松平とも十四松平とも言われています。

十四松平には惣領家である安城松平家と本来の松平家の嫡流である松平郷松平家と岩津松平家は含まれていません。

十四松平家

家名家祖
三ツ木松平家松平蔵人信孝
福釜松平家松平右京亮親盛
桜井松平家松平内膳正信定
藤井松平家松平彦四郎利長
青野[東条]松平家松平右京亮義春
大給松平家松平加賀守乗元
瀧脇松平家松平源四郎親正
竹谷松平家松平左京亮守家
形原松平家松平佐渡守与副
岡崎[大草]松平家松平紀伊守光重
五井松平家松平弥三郎忠景
深構松平家松平大炊助忠定
能見松平家松平次郎右衛門光親
長沢松平家松平備中守親則

posted by N.Tateno.Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.