『 科野国造家 』

 「熊本の阿蘇神社に伝わる『阿蘇氏系図』によると、上社大祝家諏訪氏に滅ぼされるまで、下社大祝家として信州で勢力を誇った金刺家は他田(おさだ)家と同じく科野国造家から出たとされているわ」
 「なぜ、『阿蘇氏系図』に信州の科野国造家のことが出ているのか。それは、この科野国造家意富(おおの)臣火君阿蘇君と同じく神武帝の第二皇子の神八井耳命(かみやいみみ)を先祖とする家系であって、しかも、阿蘇の建五百建命が阿蘇から科野へと進出し、ここに根を下ろし、その息子の速甕玉命が阿蘇に移住したという伝承があるからだね。阿蘇と信州は神によって結ばれていることになる」
 「別の考え方もあるのよ、国造家は多氏の血を引いているのではなく、科野直氏だっていうもの。これは、『長野県史』で提唱されたものね。この考え方によると、国造家の本拠地は更級郡で、6世紀の継体・欽明朝に分裂して伊那へと本拠地を移したことになるわね」
 「とはいっても、その考えでも信州と阿蘇との関係は否定しないわけだよね。阿蘇からきた一族があったことは確かだといっていいかもね。それ以降は諸説あるけど、少なくとも大化の改新の後のころまでには、国造家が諏訪評督(こおりのかみ)系と諏訪社大祝(おおはふり)系に分裂したわけだ。この諏訪社大祝というのは上社の大祝を模範として国造家が下社に持ち込んだものと考えられている」
 「そうね。国造家が支配したのは専ら下社のほうね。とはいえ、鎌倉時代には下社の大祝も諏訪氏を称するようになるから少しこんがらがるわね」
 「ちょっと話が飛んだね。最初の頃に戻そう。国造家の出自については幾つかの説があるけど、大化の改新の後のころまでに、国造家が2つに分裂したわけだ。今で言うところの政教分離だね。これが、まぁ、金刺舎人家と他田舎人家に相当するのかな。『諏訪市史』によると、金刺舎人直氏が欽明・敏達朝に舎人として出仕することで大和の大王家と関わりを持つことになる。これがその後の勢力拡張に繋がるわけだね」
 「そもそも、金刺という名は欽明帝の大和国磯城島の金刺宮に由来しているのよ。この一族は、後に上社の諏訪家によって追放されるけど、その一族には鎌倉時代の弓矢の名手として名高い盛澄手塚太郎金刺光盛、下諏訪に慈雲寺を開いた満貞やその弟で『新後撰集』とか『玉葉集』に名を残している金刺盛久などがいるわね」
『 継体・欽明朝 』

「武烈帝がが崩御すると、後継者がいなかったために、応神帝の血を引いているとされた越前の男大迹(おおと)王を大伴金村が朝廷に迎えて、河内樟葉宮で即位させたんだよね。これが継体天皇だ」
 「『日本書紀』によればね。『日本書紀』によると、継体帝は応神帝の5世の孫の彦主人王の子とされているわね。越前から迎えたことになっているけど、その勢力基盤は近江だったみたい。もっとも、尾張にも伝説が伝わっているわ。さらに、応神帝の5世のっていうくだりも諸説あって真偽は不明というか、本当かどうだか。貴種だったことは確かなのだろうけどね」
 「その継体帝だけど、即位したのはいいけれど中々大和には入ろうとしなかったね。山城国筒城(つつき)、弟国(おとくに)なんかを転々としたあとで、大和に入って磐余玉穂宮に都を構えたのは、なんと即位から20年後だ。実は入らなかったのではなく、応神朝の勢力が大和周辺に勢力を保持していて、大和には入ることが出来なかったんだという見方もあるね」
 「武烈帝をもって応神朝が終わって、男大迹(おおと)王によって継体朝が始められたんだというものね。確かに、『日本書記』における武烈帝の記述が武烈帝を悪逆の限りを尽くしたというような極端な書き方になっているところをみると、そう考えるのも一理はあるわね」
 「継体帝の時代はいわば激動期だからね。そのせいか、継体帝はその死の後の皇位継承に関しても謎を残しているね。継体帝は『日本書記』では531年あるいは534年、『古事記』では527年に亡くなっている。同じ人が3回も死んでいることになるわけだ。この点は、同じ時代の『百済本記』が531年としているから、531年が信憑性があるといえるね。だけど、ここからが問題で、その裏づけとなる『百済本記』がこの年に天皇だけではなく、太子と皇子まで死んだとしていることだね」
 「太子っていうのは広国押武金日命、つまり安閑帝のことね。流行病なのかしら、一緒に亡くなるというのは。それとも....」
 「それとも、っていいたくなるよね。だって、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』なんかには欽明天皇が531年に即位したことになっているんだよね。ここから単純に考えると、継体帝の後の安閑天皇、宣化天皇は存在しなかったことになってしまう」
 「あるいは、二朝並立という後の南北朝のような事態になっていたかでしょ。事実、『日本書記』では安閑、宣化の両帝は531年には亡くならずに、それぞれ534年、535年に即位したことになっているわね」
 「『日本書記』の記述自体にも議論の余地があるよね。それは置いておくとしても、安閑、宣化の両帝は越前の生まれなのに対して、欽明帝は大和で手白髪命(てしらかのみこと)との間に生まれたという血脈の良さがあるよね」
 「安閑、宣化の両帝の母親は目子郎女(めこのいらつめ)でしょ。確かにね。それが、継体帝は欽明を後継者としたけれども、継体帝の死後に大伴金村らの反欽明派が安閑、宣化に拠って政権を打ち立てたけれども、結局は欽明政権によって放逐されたという考えかたもできるわね」
 「そうなんだよ。第一、欽明帝の号が天国排開広庭命(あめくにおしはるきひろにわ)、つまりは天地開闢ってなっていることも意味深だよね」


(02.07.28 SUN)
[ 大化の改新 ] 乙巳の変 645年6月12日

 「聖徳太子の死後に勢力を握っていたのは、聖徳太子もその一族だった蘇我氏だね。蘇我氏は太子の子の山背大兄王をも滅ぼして、自らが大王のような振舞い方をしたといわれるね。聖徳太子、最近だと厩皇子かな、彼の定めた冠位でも蘇我氏は例外扱いとなっていたね」
 「聖徳太子が存命中から蘇我一族はかなりの勢力を持っていたわけね。その蘇我一族にとって太子の子の山背大兄王は目の上の瘤だったわけだけど、山背大兄王を滅ぼしてしまうと、もはや向かうところ敵なしね」
 「だけど、その権力の絶頂期に密かな野望を持った若者が現れる。中臣鎌足だ。中臣氏は一族を上げて物部氏に与力したために蘇我一族によって族滅に近い状況に追いやられている。その中で、中臣鎌足は密かに一族の復活を掛けて行動を開始する」
 「もちろん、中臣一族の復活だけを主眼においたわけではなくて、あくまでも天下国家のために蘇我氏を除くという考えが主眼ね。その中臣鎌足が最初に白羽の矢を立てたのが軽皇子。皇位継承者でもあり、軽皇子とも相当に気脈を通じていたと言われるわね」
 「ところが、軽皇子の腰は重かった。実行力に難があったんだね。とはいえ、軽皇子を非難することは出来ないね。何しろ、当時、大王にも勝るような権力を誇っていた蘇我一族を屠ろうという企みだからね。しり込みして当然といえば当然だ。もっとも、この段階では心の中を全て打ち明けてはいないだろうけど」
 「軽皇子の腰が重かったというよりは鎌足のほうが軽皇子を見限ったというべきね。そして、それでも鎌足は諦めなかった。次のターゲットとして、いやパートナーとして中大兄皇子に目を付ける」
 「中大兄皇子への鎌足の接触の仕方がまた映画のようなものだね。なかなか接触の機会がないものだから、飛鳥寺西の槻樹之下の蹴鞠会で皇子が靴を飛ばしたところをすかざず拾い上げて中大兄皇子の知遇を得るんだね」
 「そして、ここからが展開が早いわね。この時点で鎌足はもうこの人と定めたのね。対する蘇我の一族であり、一族の長老の蘇我入鹿の従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂を自分の陣営に誘い込む。つまり、鎌足は中大兄皇子に石川麻呂の娘を嫁がせたわけね」
 「それだけではないね。当時、蘇我入鹿は50人からの護衛を従えて行動していたわけで、しかもこの護衛達は片時も蘇我入鹿の側を離れない。このままでは蘇我入鹿の暗殺は無理と考えた鎌足は何とかして護衛を引き離す方策を考える」
 「それが、三韓(高句麗・百済・新羅)の使者が大極殿にて天皇に贈り物(調)を捧げる儀式の最中に暗殺を実行するという方策ね。しかも、念には念を入れて蘇我入鹿が帯びていた刀を俳優を使って取り上げている。ここで俳優にやらせたのがミソね。蘇我入鹿もまさか、俳優のおどけた仕草にすっかり安心したんでしょうね」
 「まだまだ、仕掛けたわけだよね。入鹿の暗殺を決行する合図は大極殿で石川麻呂が上表文を読上げるときと定めて、刺客として佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田を潜ませていたんだけど、さらに弓矢を隠し備えていたといわれる。果たしてこの隠し持っていた弓矢は何だったのか、刺客の2人がしくじったときに、鎌足自らが蘇我入鹿を討ち果たすためだったのか、あるいは...」
 「その先は想像ね。あるいは2人を討つはずだったのか。その場合は、石川麻呂も消さなくてはいけないわね。ともかくも、石川麻呂は上奏文を読上げる。ところが、何も起こらない。出てくるはずの刺客が現れない」
 「焦る石川麻呂ってところだね。石川麻呂は計画が漏れたかと、気が気ではなくなり、それが声にも出てしまう。ガタガタと震える様を蘇我入鹿に冷やかされる。やっとの思いで『帝の前だから緊張している』と切り抜けたと思ったその刹那、中大兄皇子自らが踊り出て蘇我入鹿を頭から肩にかけて斬りつけた」
 「続いて、子麻呂が足を斬りつけ、鎌足が矢を放つ。目の前で繰り広げられた惨劇にただただ驚く皇極帝、彼女は中大兄皇子の母親にあたるわ。彼女はなすすべもなく奥へと去っていく。蘇我入鹿は皇極帝の寵愛を受けていたから、この場面を死に際して目にしたというのは残酷ね。最後の言葉『私に何の罪があるのか』と子麻呂と犬養連網田に止めをさされ、中臣鎌足に刎ねられた首は宙を舞ったというのが無念さの証左といえるわ」
 「さらに、異変を聞いた入鹿の父である蝦夷はもはや勝ち目はないと屋敷に火を放ち自害に至り、ここに権勢を誇った蘇我一族の嫡流は露と消える。そして、(1)豪族が私有していた土地・人民を国家が直接支配するようにする公地・公民、(2)戸籍をつくり,公地を公民に分けあたえ,死ぬと国に返させるという班田収授の法、(3)国郡制度、(4)租・庸・調の税制などを実行に移していくことになるんだね」

[ 三法師 ]

 「本能寺で信長が討たれ、妙覚寺にいた三位中将信忠も二条御所(当時誠仁親王御所)で討たれた後、信忠の嫡子の三法師が秀吉によって織田家の当主として擁立される。この三法師はいわば傀儡で、秀吉が名実ともに天下人になると忘れ去られてしまう」
 「三法師は長じて織田秀信と名乗っているわね。本能寺で明智によって織田信長が討たれていなければ織田の嫡統として天下に号令する立場を継承していたと考えられる人物ね。清洲会議で英世氏によって織田信長の後継者とされたけど、その後はぱっとはしないわね。三法師というより織田秀信は天正11年4月21日に賤ヶ岳の合戦で柴田勝家が秀吉によって敗れると、岐阜城に移っているわ。岐阜城には織田信孝がいたけど、彼は織田信雄よって自刃に追い込まれているのね」
 「織田信孝は信長の三男で神戸具盛の嗣子となっていた人だね。永禄元(1558)年生まれで天正11(1583)年5月2日に亡くなっている。一方の織田信雄は信長の次男で北畠具教の養子となっている人だ」
 「織田信雄は母親が生駒氏、つまり寵愛を受けた吉乃の子ね。で、その岐阜城に移ったというか、移された三法師は、ここで従四位下、侍従に叙任され秀信と名乗ることになるわ。この名前が秀吉との関係を物語っているわね。秀吉の『秀』が信長の『信』より上にきている。つまりはこれからの天下人は秀吉、秀信はあくまでも織田家の当主ってことね」
 「秀信もその辺りは十分弁えていたんじゃないかな。左近衛少将から参議に進んで、文禄元(1592)年には13万3千石の岐阜城主となるけれども、朝鮮出兵にも従っているしね」
 「そうね、それと慶長3(1598)年には正三位権中納言になっているわ。それに、秀吉によって織田家の当主として擁立され岐阜の地を安堵されたことを恩義に感じたのか、関が原では家臣の進言を退けてまで西軍に組している。このことが後の運命を左右することになるのね。秀吉恩顧の大名が多く徳川方に組しているのだから、秀信もそうすればよかったのに」
 「それは結果論だよね。ともかくも、秀信は福島正則・池田輝政・浅野幸長・黒田長政・加藤嘉明・細川忠興といった豊臣恩顧の徳川方大名の猛攻に合って、遂には23日福島・池田隊によって城は陥落する」
 「もはや誰も織田家の当主だからということで手加減する大名はいなかったわけだよね。それにしても、最後は自刃も許されなかったのよね。秀信は自刃を望んだらしいけど、福島正則に止められて高野山へと追放となる。よほど骨身に染みたのか、秀信は22歳の若さで高野山で病没してしまうのよ」
 「これで織田家が滅亡したかというと、そうではなくて、信雄の子孫は天童藩2万石、長益、この人は信長の弟だけど、有楽斎として有名だね、この人の子孫も芝村藩1万石を拝領して明治維新まで織田家の血を伝えているね」