平成輔の墓所


<2017/12/01>

小田原を流れる早川の東岸にある平成輔の墓所.

平成輔[1291-1332]は後醍醐天皇[1288-1339]の腹心で鎌倉幕府倒幕計画に加担した罪によって六波羅探題によって拘束され,鎌倉に護送される途上,1332年6月15日[元弘2/5/22]に早川河口にて三河入道円重[河越高重]によって殺害されます.

平成輔は桓武天皇の皇子・葛原親王[804-867]を祖とする桓武平氏高棟流で,権中納言平惟輔の子.

日野資朝[1290-1332],日野俊基[-1332],四条隆資[1292-1352],花山院師賢[1301-1332]らとともに後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕計画に参加.中原章房が後醍醐天皇に倒幕を断念するように諫奏したことに対し,計画の露見を危惧した後醍醐天皇の命を受けて,平成輔は瀬尾兵衛太郎を刺客として差し向け,中原章房を清水寺で暗殺.

しかし,吉田定房[1274-1338]が後醍醐天皇の身の危険を案じて鎌倉幕府に計画を密告[元弘の変].後醍醐天皇は京都から奈良に脱出.日野資朝は佐渡にて処刑,日野俊基は得宗被官・諏訪左衛門尉に預けられたあと鎌倉葛原岡にて処刑,四条隆資は鎌倉幕府軍の追跡を逃れて紀伊に落ち延び,花山院師賢は後醍醐天皇の身代わりとなり比叡山に登るも捕縛され,下総の千葉貞胤[1292-1351]のもとに預けられた直後に没します.

平[烏丸]成輔は京都で六波羅探題に捕縛され,丹後前司・長井宗衡に預けられ,鎌倉幕府により斬罪が言い渡されます.そして,三河入道円重[河越高重]によって鎌倉へと護送され,鎌倉に入る前に小田原の早川尻にて処刑されました.

遺骸は早川の潮音寺に埋葬されたと伝わります.この潮音寺が明治時代に報身寺に合併.その墓所は現在では報身寺の管理するところとなっています.


<平成輔が斬られた早川>

小田原城
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早川口土塁