世に江戸時代の討ち入りといえば、播州赤穂浪士の高家吉良邸討ち入りを指す。

 時代は元禄である。

 ここに、同じく元禄の討ち入りがいま一つ存在する。

 舞台は江戸市中を遠く離れるも、同じく幕府直轄領(天領)の長崎である。
 
 長崎は天領になる前は大村家が領し、その配下の長崎甚左衛門純景が支配する町だった。元の名を深江浦という。
 この長崎の町の町割りを行って整備したのは、長崎純景と長崎町割奉行朝長対馬守である。
 その後、この地が佐賀竜造寺家臣深堀氏によってしばしば侵されるようになると、キリシタン大名の大村純忠は長崎六ヵ町をイエズス会に寄進し、1579(天正7)年に長崎は教会領となった。

 さらに、その後、豊臣秀吉によるキリシタン禁令によって、長崎は豊臣家直轄領となり、これが徳川幕府に引き継がれた。

 長崎は深堀一族にとって因縁の深い地といえる。

 前置きが長くなった。

 討ち入ったのは、佐賀鍋島家に属する深堀藩士(深堀鍋島家中)である。

 事の次第は概して次のようなものという。

 1700(元禄13)年は12月19日、長崎は大音坂で深堀家中の深堀三右衛門と柴原武右衛門が仲間(ちゅうげん)とふとしたことから争いになる。
 
 しかし、この相手が良くなかった。仲間(ちゅうげん)は長崎町年寄筆頭の高木彦右衛門の手下(てか)だったのである。
 そして、高木家の者たちは威信を掛けて長崎五島町の深堀屋敷を襲った。
 相手は天領の町年寄筆頭である。容易に手向かいは出来ない。
 深堀藩士達は地団駄踏んで悔しがった。

 そして、あまりの口惜しさに、終に報復に打って出る。

 翌日、深堀屋敷の面々だけではなく深堀から加勢を得て高木家に討って入った。
結果は、双方に傷を残した。
 当主高木彦右衛門は深堀藩士によって首をとられた。
 事の契機となった深堀三右衛門と柴原武右衛門は自ら切腹して果てる。

 仕置きはこれで済むべきもなく、高木家嫡子彦六は長崎追放となり高木家は断絶。
 深堀藩士も10名が切腹、9名が五島へと流された。

 時代は同じ時期に似た事件を呼んだといえる。
 時代を形作るのは、その時代に生きる人々であることはいうまでもないが、その時代に波打たれるのも、また人である。

[2002(平成14)年7月7日(日)記]