池田 輝政[1564(永禄7)年〜1603(慶長18)年]


 「池田輝政公といったら松平播磨宰相。姫路城が思い浮かぶね」

 「輝政は織田家の宿老の池田恒興の次男。幼名は古新、元服後は照政を称したらしいけど正確な時期はわかっていないわ。次男だから当然に兄さんがいたわけね。その兄さんの名は元助。本来なら、この人が池田家を相続するはずだったんだけど、残念ながら1584(天正12)年の」
 「長久手の戦い
 「そう、4月のその長久手の戦いで戦死してしまうの。そこで、秀吉から池田家の家督と所領である美濃岐阜領10万石を認められるわけ」
 「そういう意味でいうと豊臣恩顧の大名といえるね」
 「そうね。天正15年には従五位下・侍従に叙任されると同時に羽柴姓を与えられているから」
 「羽柴岐阜侍従と名乗ったんだ。もとっとも、それ以前からの三左衛門尉も引き続いて名乗っているから羽柴三左衛門尉照政ということになるかな」
 「ともかくも、豊臣恩顧であることは確かね。所領も徳川家康の関東転封の後の三河吉田15万2千石になっているしね。しかも、この吉田への入部は尾張に入った豊臣秀次の年寄の1人としての位置づけなの」
 「秀次配下とはいっても、羽柴姓を名乗っているから実態は与力大名だね」
 「照政の命運が大きく変化するのはこの三河吉田時代。その頃、照政には既に照国という嫡男がいたんだけれど、豊臣家と徳川家とを考えた政略によって、秀吉が1594(文禄3)年に徳川家康の次女の督姫を正室に迎えて家康の婿になるわけ」
 「それって大きな意味を持つよね。照政は羽柴姓を名乗っていても池田家だからね。池田家にとっては羽柴姓を名乗ることで豊臣側であるけれども、徳川家の婿でもあるから徳川側でもある。情勢に応じてどちらにでもいけるわけだ」
 「その通り。実際には1598(慶長3)年に秀吉が薨去した後の権力抗争では家康に付いて」
 「関ヶ原では東軍の搦手軍大将を勤めている」
 「毛利輝元の大阪城出城なんかも担当しているわ」
 「そうした働きによって、播磨国52万石を拝領した他、督姫との子である五男忠継に備前国28万石が与えられたわけだ。親子で2国を統治するというのは大大名だね。あっ、同時じゃないけど六男の忠長(忠雄)にも淡路1国6万石が与えられているから親子で3国だ」
 「でも、まだ羽柴姓はそのままで、羽柴播磨少将なのよ」
 「3国86万石で加賀前田の百万石に次いで第2位なのに」
 「もっとも、慶長17年には松平を許されて松平播磨宰相となるけど。これは、参議(=宰相)に叙任するのは徳川一門以外では初めてね」


 輝政を名乗ったのは慶長12年。少将叙任以後のこと。